キケロー著 中務哲郎訳 『老年について』(岩波文庫)から私が抜粋した文章を記す。
▼ 人は皆、老齢に達することを望むくせに、それが手に入るや非を鳴らす。(p.13)
▼ 何らかの終わりが必ずやなければならない。ちょうど木の実や大地の稔りが、時を経た成熟ののちに、萎れたりぽとりと落ちたりするように。(p.14)
▼ 不平のない老年を送る人を沢山知っている。そういう人は欲望の鎖から解き放たれたことを喜びとし、身内の者から軽蔑されることもないのだ。全てその類いの不平は、性格の所為であって年齢の所為ではない。(p.15-16)
▼ 愚者にとっては、山ほど財産があっても、老年は重いのだ。(p.16)
▼ 老年を守るに最もふさわしい武器は、諸々の徳を身につけ実践することだ。(p.16)
▼ 愚か者は己れの欠点や咎を老年の所為にするものだ。(p.21)
▼ 肉体の力とか速さ、機敏さではなく、思慮・権威・見識で大事業はなしとげられる。老年はそれらを奪い取られないばかりか、いっそう増進するものなのである。(p.24)
▼ 無謀は若い盛りの、深謀は老いゆく世代の、持ち前というわけだ。(p.26)
▼ 熱意と勤勉が持続しさえすれば、老人にも知力はとどまる。(p.27)
▼ 次の世代に役立つようにと木を植える。(p.29)
▼ 毎日何かを学び加えつつ老いていく。(p.31)
▼ 今、青年の体力が欲しいなどと思わないのは、ちょうど、若い時に牛や象の力が欲しいと思わなかったのと同じだ。在るものを使う、そして何をするにしても体力に応じて行うのがよいのだ。(p.32)
▼ 体力の適度の使い方さえあれば、そして各人ができるだけのところで努めるならば、体力を欲しがりすぎることはあるまい。(p.36)
▼ 人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ。(p.37)
▼ 老年には体力が欠けているか?いや、老年に体力は要求もされない。(p.38)
▼ 健康に配慮すべきである。ほどよい運動を行い、飲食は体力を圧し潰すほどではなく、体力が回復されるだけを摂るべきである。(p.38-39)
▼ 肉体は鍛錬して疲れが昂ずると重くなるが、心は鍛えるほど軽くなるのだ。(p.39)
▼ 人生は知らぬ間に少しずつ老いていく。突如壊れるのではなく、長い時間をかけて消えて去っていくものである。(p.41)
▼ 老年は宴会や山盛りの食卓や盃責めとは無縁だが、だからこそ酩酊や消化不良や不眠とも無縁なのだ。(p.44)
▼ 老年は破目をはずした宴会には縁がなくとも、節度ある酒席を楽しむことはできるのだ。(p.44)
▼ 老年にとって、いわば肉欲や野望や争いや敵意やあらゆる欲望への服役期間が満了して、心が自足している、いわゆる心が自分自身と共に生きる、というのは何と価値あることか。(p.49)
▼ 研究や学問という糧のようなものが幾らかでもあれば、暇のある老年ほど喜ばしいものはないのだ。(p.50)
▼ 青年期の基礎の上に打ち建てられた老年だ。(p.61)
▼ 青年が死ぬのはさかんな炎が多量の水で鎮められるようなもの、一方老人が死ぬのは、燃え尽きた火が何の力を加えずともひとりでに消えていくようなもの、と思えるのだ。(p.66)
▼ 果物でも、未熟だと力ずくで木から捥ぎ離されるが、よく熟れていれば自ら落ちるように、命もまた、青年からは力ずくで奪われ、老人からは成熟の結果として取り去られるのだ。(p.66)
▼ 何にせよ接ぎ合わされたものを引き剥がすのは、作りたてほど難しく、古くなるほどたやすいもの。(p.67-68)
▼ 死をものともせぬよう若い時から練習しておかなければならない。(p.69)
▼ 眠りほど死に似たるものがない。(p.74)
▼ 賢い人ほど平静な心で、愚かな者ほど落ち着かぬ心で死んでいく事実を、どう説明するか。(p.83)
▼ 仮りに、われわれは不死なるものになれそうにないとしても、やはり人間はそれぞれふさわしい時に消え去るのが望ましい。自然は他のあらゆるものと同様、生きるということについても限度を持っているのだから。因みに、人生における老年は芝居における終幕のようなもの。そこでへとへとになることは避けなければならない、とりわけ十分に味わい尽くした後ではな。(p.78)
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